『雁』:森鴎外

    お玉は岡田に接近しようとするのに、もし第三者がいて観察したら、

   もどかしさに堪えまいと思われるほど、逡巡していたが、

   けさ未造が千葉へ立つといって暇乞(いとまごい)に来てから、

   追手を帆に孕ませた舟のように、志す岸に向って走る気になった。

      (省略)

   そしてこうとんとん拍子に事が運んで行くのが、終局の目的の

   容易に達せられる前兆でなくてはならぬように思われる。

   きょうに限って岡田さんが内の前をお通なさらぬことは決してない。

   往反(ゆきかえり)に二度お通なさる日もあるのだから、

   どうかして一度逢われずにしまうにしても、二度とも見のがす

   ようなことはない。

   きょうはどんな犠牲を払っても物を言い掛けずにはおかない。

   わたしは卑しい妾に身を堕(おと)している。

   しかも高利貸しの妾になっている。だけれど生娘でいた時より

   美しくはなっても、醜くはなっていない。

   その上どうしたのが男に気に入るということは、

   不為合(ふしあわせ)な目に逢った物怪(もっけ)の幸いに、

   次第に分かって来ているのである。

   して見れば、まさか岡田さんに一も二もなく厭な女だと

   思われることはあるまい。いや。そんな事は確かにない。

   もし厭な女だと思ってお出なら、顔を見合わせる度に

   礼をして下さるはずがない。

   いつか蛇を殺して下すったのだってそうだ。

   あれがどこの内の出来事でも、きっと手をかして下すったのだ

   というわけではあるまい。

   もし私の内でなかったら、知らぬ顔をして通り過ぎて

   おしまいなすったかも知れない。

   それにこっちでこれだけ思っているのだから、

   皆までとは行かぬにしても、この心がいくらか向こうに

   通っていないことはないはずだ。

   なに。案じるよりは生むが易いかも知れない。

 

森鴎外の『雁』

中学1年の時に、姉の本棚からかりて読んだ記憶があるが、

中学1年では意味が全くわからなかった。

男女二人が結ばれなかったとは思うのだけど、

何か物語としては記憶があいまい。

それもそのはずだ。

二人はそれほど深いつながりがないまま話が進んでいく。

そして、唐突に終わりを告げるのだが大人になってから読むと

結構味わい深いことに気がついた。

 

 

   生れてすぐに母を亡くし、貧困の中で父親に育てられたお玉は、

  高利貸未造の妾となり、上野不忍池のほど近い無縁坂に

  ひっそりと住んでいる。

  やがて、散歩の道すがら家の前を通る医学生岡田と

  会釈を交すようになり・・・・・・。鴎外の哀感溢れる中篇。

              文庫 表紙裏より

 

解説のところにこう書いてあった。

 

   まだ早過ぎる明治の初期に、一女性がみずからを

   飛翔させることのむずかしさ、しかも、しばしば人間以上の

   なにものかによって阻まれることのはかなさ、

   それを一羽の雁の偶然の死が象徴することまでの

   見透しがついていたにちがいない。

 

 

貧しさにゆえに、幸せな結婚を望めず、妾になる運命を受け入れた

お玉だが、満たされない毎日。

家の前を散歩で通り過ぎるときにちょっと会釈してくれる岡田に

生きる希望を見出す。

だが、哀しい行き違いも重なって、彼女は思いを遂げられないで

はかない恋は終わっていくのだが、

果たしてこれで終るのか。と私は思った。

 

今回、岡田では、失敗したが、

第2第3第4第5・・・・の岡田が現れたとき、成功するかもしれない。

身を破滅させるかもしれない。

経験値を積んでいけば、もしかしたら・・・・。

 

未造の妾に入ったばかりのお玉は、世間知らずの小娘風情だったのが、

辛い境遇を父親に話して痛みを共有してもらおうと

思うが、父親には心配をかけさせまいと決意した時から、

だんだん強くなっていくのである。

 

   お玉は最初主人大事に奉公する女であったのが、

   急劇な身の上の変化のために、煩悶して見たり省察(せいさつ)

   して見たりした挙句、横着といっても好いような自覚に到達して、

   世間の女が多くの男に触れた後にわずかにかち得る冷静な心と

   同じような心になった。

   未造は愉快な刺戟として感ずるのである。

   それにお玉は横着になるとともに、

   次第に少しずつじだらくになる。

 

清純な娘だったのが、いつしか本当に妾らしくなっていっている

のだなと感じる。

ここで、主人だけに満足している妾になるのか、

自分も主人がいない間に恋人を作って、

もしかしたら逃げてしまう女になるのか。

どっちかなあ

とふと思ってしまったのだが、

鴎外が書いた時の明治の女性は、ここまでが精一杯だったのかなと。

 

未造の正妻に対しての態度に腹ただしくて

「けっ!」と思ってしまった。

 

参考:『雁』 森鴎外著 岩波文庫 1936

                 2002改版

    明治四十四年9月~大正二年まで「スバル」に連載