『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』今野勉
《猥れて嘲笑めるはた寒き》
これが最初の一行だった。いきなり「猥れて」とあるが、
これは、どう読むのか。
「猥」だけではない。短い四連のその詩の中には
「猥」の他に、「嘲笑」「凶」「秘呪」などの
字句がただならぬ気配を発していた。
私が知っている賢治ーーーたとえば「世界がぜんたい
幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と書く賢治とは
別人のような賢治が、そこにいる気がした。
「猥」ではじまるその文語詩は、難解というよりは不可解であり、
異様であった。
はじめに 「五人目の賢治」を探して より
10年近く前、1冊の宮沢賢治の本を手に取って衝撃を受けた。
菅原千恵子の『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保坂嘉内をめぐって』という本だ。
面白くて、ブログに記事をのせたことがある。
10年後、また衝撃を受ける賢治の本に出会った。
この本で、確かにいろいろなことが私の中で腑に落ちた。
そう、いろいろなことが。
本書は、「はじめに」と「終章」を入れると9つの章立てになっている。
はじめに:「五人目の賢治」を探して
「私はこれまで四人の宮沢賢治に出会っている。」
著者が子供の頃から出会った宮沢賢治の作品を紐解く。
これは、誰も「私の宮沢賢治」を持っているだろうから、興味深い。
その中の著者が平成二十二年の夏に出会った「五人目の賢治」が、
問題だった。
第一章:謎の文語詩
昭和八年夏、死の直前それまで数年かけて推敲してきた文語詩を
宮沢賢治は清書した。
「文語詩稿一百篇」の四十四番目[猥れて嘲笑めるはた寒き]で
始まるこの詩の難解さにひかれ、調査を始める。
この文語詩を作ったのは、大正十一年初雪(十一月十一日)の降る前と
著者は仮定する。
妹トシは、その数日に息を引き取っていることも心に止め、同じ時期に
作った「マサニエロ」という詩に注目する。
「マサニエロ」とは何か。そこから妹の「とし子の恋」に行き着く。
第二章:「妹の恋」という事件
賢治の「マサニエロ」や[猥れて嘲笑める]という不可解な詩の背後に
「妹の恋」があると著者は、宮沢としの「自省録」に注目する。
妹のとし子の初恋の事件の経緯が「自省録」「岩手民報」
『花南六十周年史』他から明らかにされる。
賢治は妹とし子の「自省録」を読んだ。大正五年から十年の間に
狂乱ともいうべき「恋」をし、痛切な「失恋」を経験した賢治は、
共感と情動を理解する。そこから「マサニエロ」を生み、
[猥れて嘲笑める]を生んだと指摘する。
第三章:そのとき賢治も恋をしていた
失恋に傷ついた妹のとしは、日本女子大学校へ入学する。
家族(父・母・賢治)に心配かけまいと元気にふるまう手紙を
書き送る。しかし、賢治は盛岡高等農林学校受験などが重なり、
妹の事件を知らずにいた。そのとき賢治も恋をしていた。
友人保坂嘉内との出会いから別れまでを明らかにしながら、
妹のとし子の苦悩の日々も重ねていく。
第四章:「春と修羅」完全解読
文語詩[猥れて嘲笑める]と口語詩「マサニエロ」が生まれた背景には、
妹とし子の初恋にまつわる事件があった。賢治がいつ、どのようにして
妹の事件を知ったのか。
大正十年夏、保坂嘉内と訣別を余儀なくされた賢治は、詩人としての
それらの詩は、賢治が自分の心をとことん見つめ、そこから新たな
自分を構築し、今までとは違った精神の高みへ自分を解放しようとする
ものだった。そんな時に、とし子の「自省録」を読み、ひとりの人間
の、赤裸々な心の軌跡に直面した。自分の心だけ見つめてきた賢治に
とって、それは、自らの存在をゆるがすほどの衝撃だったと著者は
指摘する。「春と修羅」「小岩井農場」で賢治が人間と人間の関係を
ーーーもっと端的に言えば、人を恋うということをーーー
どう考えていたかを読み解いていく。
第五章:ついに「マサニエロ」へ
大正十一年は賢治にとって人生の中で最も濃密な時期だった。
一月に本格的な詩作を始め、四月「春と修羅」五月「小岩井農場」を
書き、精神的危機を脱し、新たな地平に立っていた。
前年の十二月から稗貫農学校での教師の仕事は充実していた。
その年の十月十日に賢治は「マサニエロ」を書く。
背後に妹とし子の初恋事件があることから著者は、
とし子の「自省録」と向き合う。
「自省録」の中の自分の「恋」とは何だったのか。それを読んだ賢治が
どのような気持ちで「マサニエロ」を書いたかを読み解く。
第六章:妹とし子の真実と「永訣の朝」
大正十一年十一月二十七日、とし子の病状が急変した。「永訣の朝」
「松の針」「無声慟哭」などからとし子の死の直前の思いを読み解く。
またとし子の死の翌年書いた「手紙四」の中に出てくる兄チュンセと
妹ポーセの物語に後押しされるように、どこの世界へ行ったのか
わからない妹の魂をさがす旅に出る。
「青森挽歌」「オホーツク挽歌」などからその苦悩を読み解く。
詩「青森挽歌」の最初に出てくるイメージが童話「銀河鉄道の夜」を
発想する原点だった。
に注目し、「銀河鉄道の夜」のテーマは何かを考える。
また、「ジョバンニの切符」とは何だったのかも考える。
終章:宮沢賢治の真実
著者は、「銀河鉄道の夜」の中に妹とし子の存在を探し求める。
「噴火湾(ノクターン」「薤露青」「銀河鉄道の夜」「双子の星」
「手紙四」などから考える。
今回は、友人保坂嘉内のことよりも、妹とし子さんの初恋に衝撃を受けた。
これは、何という悲しいことだったろう。
普通の初恋で終れていたなら、こんなに悲しい死を迎えなくてすんだかも
しれない。
また、以前菅原千恵子の『宮沢賢治の青春』で、私は頑なに
賢治はホモセクシュアルではないと断じたが、今回本当に納得した。
そうだね、賢治はそういうことだったんだ。
でも、嘉内は違ったんだね・・・・と。
思想の違いも二人の仲を裂いたかもしれないけど、
賢治の恋心にこたえることができなかったんだなあと。
それから、確かに賢治の詩はわかりづらい。
本当にわかりづらかったので、この本で賢治の詩の読み方を
学べてよかった。
『春と修羅』の中にある「グランド電柱」の中にある
「岩手山」という詩。
そらの散乱反射のなかに 古ぼけて黒くゑぐるもの
ひかりの微塵系列の底に きたなくしろく澱むもの
なんで、あんなにすがすがしく見える岩手山をこんなにきたなく
描写するのかと当時思っていた。
でも、保坂嘉内との切ない青春の思い出の場所なのだ。
岩手山は彼の青春の蹉跌なのだと思った。
新潮文庫 2020